Justice再読: 第8章 Who Deserves What?/Aristotle

Justice: What's the Right Thing to Do?をメモを取りながら再読中。

第8章 Who Deserves What?/Aristotle まとめ

Aristotleの思想

正しい行いとは、物事の目的や本質にかなった行いである。そして、何が本質であるか、何が真の目的であるかは、とことん議論すべきだ。
#要約したら言ってることはこれだけだと思う。ちなみに目的や本質のことをテロスというらしい

主な例題を3つ。

例題 チアリーダー

体に障害を持つチアリーダーがいた。足が不自由でアクロバティックな応援はできないが、車椅子に座りながらも、その魅力によりチームNo.1の人気者で、応援効果は抜群だ。
応援することがチアリーダーの本質である、と思う人は彼女を支持する。
アクロバティックな技こそが本質である、と思う人は彼女を辞めさせたがる。

例題 ゴルフ

体に障害を持つゴルファーが居た。彼はボールを打つのは極めて得意だが、体力がないためにゴルフ場を歩くのがキツい。そこで、大会において、歩くのではなくカートで移動する許可を求めたが、主催者は拒否した。裁判勃発。
カート支持派:ゴルフの本質はボールを打つことであり、歩くことではない。
カート否定派:歩くことも含めてゴルフの本質だ。
なお、判決としてはこのゴルファーが勝ち、大会に参加できたらしい。
#裁判所がゴルフの本質を勝手に決めるなよ、とは思う。実際、判事の一人はそういう意見だったらしい。

例題 学校

前章のAffirmative Actionの話。学校は学力だけで入学者を決めるべきか、あるいはAffirmative Actionのように様々な要素を加味して決めるべきか。
学校の目的は学術に秀でた者に磨きをかける場所であると思う人は、学力だけで判断すべきだと考える。
学校の目的は社会に役立つ人材を育てることであると思う人は、Affirmative Actionその他を支持するかもしれない。

結論

何が正しいかを議論すると、物事の目的や本質についての議論を避けて通れない。

感想

本質と目的についてしっかり議論すべきである。賛成。何が正しいかを議論しようとすれば、物事の目的や本質についての議論を避けて通ることはできない。賛成。
ただ、その本質や目的自体の正しさを考えるには、結局は今までの章で出てきたような思想、功利主義とかリバタリアニズムとか、に頼らざるを得ないと思うんだけどね。
たとえば。歩くのはゴルフの本質だ。なぜなら、そのほうが結果的に面白いからだ。結果的に面白いとなにがいいのか。面白いと幸福になれるからだ。功利主義的に見て正しい、とか。
しかし、本の書き方としては、本質を重視する思想は、功利主義(幸福重視)とかリバタリアニズム(自由重視)などと対立する概念である、という方向に持っていこうとしてる感じ。読んだ範囲内では、対立しているようには思えないんだけど。幸福や自由につながらない本質なんて要らんし。
再読なのに、一周目から進歩なし。とりあえず先に進むしかない。