Justice再読: 第10章 Justice And The Common Good(前半)

Justice: What's the Right Thing to Do?をメモを取りながら再読中。

第10章 前半まとめ

この章の主張

なにが正しいかを決めるということは、宗教や道徳観から切り離して考えることはできない。できないだけでなく、すべきではない。功利主義のように幸福だけを追求したり、リバタリアンその他のように自由だけを追求するのではだめだ。

例題1 人工中絶はアリか?

人工中絶を認めるかどうかは、各国で議論になっている。これは幸福の追求観点で考えたり、自由の観点でかんがえても、絶対に答えが出ない。つまるところ、「人はどのタイミングで人になるのか」ということにつきる。人間だとすれば、人間を殺していいという国はないのだから。妊娠した瞬間か、生まれた瞬間か。これはもう宗教の領域だ。
ついでに、ES細胞の研究だって同じ問題を抱えている。胚から作るのであれば、人工中絶と同じ問題を持っている。胚は人間か、そうでないのか?

例題2 同性結婚はアリか?

中絶は人の生死の問題だから特殊かもしれない。しかし、同性結婚はどうだろう。
同性結婚を認めるかどうかも、各国で議論になってる。これは、結局は「結婚という制度の目的はなにか」ということで、やっぱり宗教の領域だ。そこに踏み込まずに議論はできない。

感想

一周目は、本全体のなかで最も納得できなかった部分だった。再読でも納得できなかったが、何に納得できないのかわかってすっきり。
まず第1に「あとは宗教で決めるしかない」というロジックがおかしい。人工中絶とか同性結婚について、宗教のみを根拠に口を出す人はたしかに存在するとは思う。だからといって、宗教に踏み込まずに議論することだって十分に可能なはずだ。狂信者が居るからって、諦める必要はない。
自分の場合、同性結婚反対派だが、宗教に頼らずに理由を説明できるつもりだ。理由を説明できるということは、賛成派の人と議論もできるということだ。
第2に、100歩譲って「宗教で決める」ことにしたところで、それこそ何の解決にもならない。「キリスト教ではこうなっています。だからこれが正しいです。」とか言われても、キリスト教信者以外で納得するやつはいないと思う。ちょうどタイムリーにニュースもあったし。
バチカン、体外受精技術へのノーベル賞に不快感

バチカンは、受精卵の段階で人間とみなす考え方をとっており、受精卵の中から最適なものを選んで子宮に戻し、残りを捨てる体外受精に対して反対の立場を示している。

これを読んで、「バチカンが言ってるから体外受精はダメだな」とかいって納得するのは、カトリック信者だけじゃないかな。自分の場合は、「バチカンざまみろ。悔しかったら、体外受精で生まれた多数の人に面と向かって言え。」とか思って痛快な気分だったし。信者以外の人と議論したかったら、結局は「神」以外の根拠が必要となってくるわけで、最終的には功利主義とかそういうのに行き着くんじゃないかと思う。